日本選手権競輪とは
当時、唯一の特別競輪として春秋2回、西日本・東日本の交互開催を原則として「全国争覇競輪」の名で始まった。
第8回(昭和28年11月 大阪中央競輪場)以降年1回開催となり、第11回(昭和31年11月 後楽園競輪場)からは後楽園競輪場での固定開催となった。
後楽園競輪場での「全国争覇競輪」は大盛況で、第15回(昭和35年11月)には6日間で約23万人の入場者数があったが、このときの場内の混乱ぶりが警察当局から「警備上問題がある」という警告を受けたため、昭和36年に開催予定だった第16回は中止となった。昭和38年3月に一宮競輪場で改めて第16回が開催されたが、第17回(昭和39年2月 後楽園競輪場)からは名称を「日本選手権競輪」に改め、再び後楽園競輪場で開催された。
昭和44年1月に当時の美濃部東京都知事が都営公営競技全廃の方針を打ち出したことによって後楽園競輪場が休止に追い込まれたため、第23回(昭和45年2月 一宮競輪場)からは後楽園競輪場での固定開催ではなく各場で開催されることとなり、現在に至っている。
第27回(昭和49年2月 西武園競輪場)からは特別選抜予選競走の出場選手27名を、全国から選抜された選手が実力で最高の地位を争うといった観点から、予め選手選考委員会において選定された選手135名により3回戦のトライアルレースを行って決定した。
第29回(昭和51年3月 千葉競輪場)からは、原則として、選考委員会より選定された選手によりトライアルレースを実施して全出場選手を決定する方式となり、第48回(平成7年3月 松戸競輪場)まで実施された。
第49回(平成8年3月 千葉競輪場)からは、1月から12月までの間における平均競走得点の上位選手から順次選抜する方式となり、第51回(平成10年3月 西武園競輪場)からは、1月から12月までの間における特別競輪等選手選考評価点(B級在籍時の競走成績は除外する)の上位選手から順次選抜する方式となった。
第55回(平成14年3月 立川競輪場)では敗者復活戦が第38回(昭和60年3月 立川競輪場)以来17年ぶりに復活し、準決勝が4個レース(2着までが決勝進出)、ゴールデンレーサー賞1着者が準決勝を走らずに決勝に進むという概定番組が採用されたが、第56回(平成15年3月 平塚競輪場)からは再びオーソドックスな「敗者復活戦無し、準決勝3個レース」を採用している。
また、第57回(平成16年3月 静岡競輪場)からは、賞金獲得額上位者を選考するようになった。
日本選手権競輪は、別名「競輪ダービー」と呼ばれ、年間6つある全てのGIの中でも、最も権威ある開催としてファンの方に親しまれている。
日本選手権競輪展望
数あるGIの中でも最高峰のレースと位置づけられている第75回日本選手権競輪が東京の京王閣競輪場で開催される。脇本雄太、新田祐大、深谷知広らのナショナルチーム組が不在で勢力図的には各地区拮抗状態と言えそうだが、3月のウィナーズカップを制した清水裕友と松浦悠士の中国コンビが一歩リードか。もちろん郡司浩平率いる南関東や平原康多率いる関東も強力で北日本や近畿の伏兵陣の一発も侮れず、ダービー王の称号を巡る熱き戦いが繰り広げられるだろう。